2006年10月29日 (日)
2006年10月28日 (土)
脱脂粉乳・鯨肉・ソフト麺とくれば・・・
ついに発表「昭和ノスタルジー・思い出の給食その④」
№4 揚げパン
揚げパンのまわりには砂糖がついているのが一般的でしたが、時にはきな粉のついているものもありました。
揚げてある表面はやや硬く、噛むとカリッとした音がしました。外側の香ばしくもやや硬めの表皮と中のふんわりとした部分とが微妙にマッチし、口の中でとけあうのです。甘いものに飢えていた時代の食べ物だったのでしょう。
パンを食べる時に砂糖が床や机の上に落ちて困りました。手も砂糖だらけ、口の周りも砂糖だらけでした。
途中からロール状になっているポリエチレンの袋に入れて食べるようになったと思います。給食当番が袋の中に手を入れて揚げパンをつかみます。そのまま袋を裏返せばパンは中に収まるという具合です。
こんな方法で袋に何か入れることもできると知りました。私にとってこれはコロンブスの卵でした。
2006年10月27日 (金)
思い出の給食
№3 ソフト麺
この食材も最近ではほとんどお目にかかれず、私の勤務する学校でも何回かのリクエストによってようやく実現しました。腐りやすいため夏場は提供されません。
人によって好き嫌いがはっきりしていたことを思い出します。ソフトというだけあって腰も何もない、まるで讃岐うどんの逆バージョンのようなものでした。
ソフト麺の汁としては、カレー、ミートソース、和風の汁といった具合にいくつかありました。そこにビニールの薄い袋から麺を取り出し、汁をからませて食べるのです。
この時に汁の入った容器に麺入れ過ぎると中でからませることができず、味のない麺ばかりを最初に食べるはめになります。
まずは手で袋に入っている状態のまま四等分し、ひとつのかたまりづつ汁につけると上手に食べられるのです。
受け持ちの生徒が初めてソフト麺に遭遇した時、そのような食べ方の注意をしたにも関わらずいっきに袋の中身を汁わんにあけてしまい、呆然としている者が何人かいました。まだまだ修行が足りません。
2006年10月22日 (日)
思い出の給食
№2 鯨の竜田揚げ
前述の脱脂粉乳も似たような去り方をしましたが、その存在はあくまで必要悪といえました。ところが鯨肉の場合はまだまだ現役といった時に人々に惜しまれつつ消えていったのです。
最近の若者は鯨を食べた経験がないそうです。缶詰としてスーパーに売っていますが食体験のないものは敬遠するのでしょうか。まあ値段もけっこうしますね。このままあと20年もすれば鯨肉を食べるという文化は消え去るでしょう。老人の昔語りのひとつになってしまいます。鯨肉を食べた経験のない人が何も知らされなければ、食感が馬肉に似ていると思うのではないでしょうか。まさに食用蛙の肉が少し泥臭い鶏肉に似ているようなものです。あれもかなり味が近いですね。
鯨肉は刺身、ベーコン、竜田揚げとさまざまに調理されますが、やはり定番の「竜田揚げ」が一番おいしいと思います。肉自体はさっぱりしていて、あまり油っこくないので揚げ物にするとちょうどよい加減になるのでしょう。給食にでていたものは長方形をしていました。なかなか食いちぎれなかったこともありますが、繊維の方向に裂くとすぐに切れたと思います。輪ゴムのような黄色い筋がはいっていました。東京オリンピックの頃、伸び盛りでいつもお腹をすかせた私は肉を渇望していました。それをかなえてくれたのが給食の鯨肉だったのです。
最近家でも昔の給食の竜田揚げを再現しようと調理するのですが、懐かしい味はなかなかでません。なぜでしょうか、あの時代だったから感じたおいしさだったのかもしれません。
2006年10月15日 (日)
思い出の給食(昭和30~40年代)その①
思い出の給食
昭和三十年代の終わり頃から四十年代にかけて小学校に通った私の「思い出の給食ベスト5」を紹介したいと思います。
№1 脱脂粉乳のミルク
今のカップと少し違い、当時のミルクや汁を入れるものはカップの横に指を入れる部分がありました。コーヒーカップを横に広げ巨大化したような形ですね。色は黄銅色でした。アルマイトなどなら白っぽいと思いますが、いったい何でできていたのでしょうか。まさか軍隊で使った中古品とか。確かにかなりでこぼこしていました。そこになみなみと脱脂粉乳のミルクが丸食管からおたまで入れられるのです。
私たちは「いただきます」の後すぐにこの難物の処理にかかります。おいしいからではなく「早く何とかして残りの給食を楽しみたい」という一心からです。指を入れた右手だけでは安定しないので、左手も軽くカップに添えます。ああ、ひどいにおい。そっと左手を離し鼻をつまみます。ぐぐっと喉に押し込みます。ミルクの表面にできた薄い膜が口元に近づいてきます。カップを置き、フォーク(当時はスプーンもはしもなくフォークを使って食べていた)で膜を取り除きます。少しでも冷えると膜ができるのです。栄養はあるようですが積極的に食べようとはせず多くの人はカップのはしにくっつけてそのままにしておきました。
毎日この作業はくり返されました。今と違い当時は給食を全て盛りきりにして食管には残しませんでした。ですからもっと食べたい人は不足し、あんまり食べたくない人は量が多すぎました。もちろんこのミルクは誰もほしがりません。給食当番があまったものをもう一度みんなに分配する時に、みんなカップを両手でふさいで「今日は体調が悪いから」とか「もうたくさん入っているから無理」とか「入れたら怒るぞ」と言って拒否していました。それでも両手の上のおたまは動きません。当番も困るのです。先生には「早く配りなさい」と言われ、友達からはにらまれます。一度、さえぎった両手の上からミルクが注がれたことがありました。その子は手を軽く火傷しました。当番の不注意と嫌われ者の「脱脂粉乳」による悲しい事故であったと思います。
ただ1人だけ「僕は好きだよ」と言っていた子がいました。H君です。彼はクラスで唯一とてもおいしそうに飲んでいました。当時の子どものどれくらいかは青っぱな(鼻汁が青く粘着力があるもの)をたらしていました。あれは栄養不足の症状という説もあります。確かに最近の子どもにはほとんど見られません。H君が脱脂粉乳のミルクを飲もうとすると、その鼻汁が下に降りてきてもう少しでミルクと合体しそうになるのです。「あぶない!」といった瞬間に鼻汁はズルッという音とともに鼻腔奥に収納されるのです。私はその名人芸を隣の席でかなり長い間にわたり見学するチャンスがありました。
いまでも「脱脂粉乳」とH君の鼻汁はセットとなって頭にうかんできます。



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